人・まち・ブンカ”ラボへの寄稿文

2/14に神戸KIITOにて、”人・まち・ブンカ”ラボ まちのブンカのカタチを創る ローカルアーティストってなんだ?というのが主題のイベントに、山崎亮さんら錚々たるメンバーと共に僕でいいのかと思いながら参加した。そこで流した映像は、このサイトのドキュメンタリーの頁にあるのでそちらから確認してもらうとして、そのディスカッションで語りきれなかったことを文章にまとめてとの主催者からの要請をうけ、以下を書いた次第。おそらく小さな冊子等になるのでしょうが、文章を見る機会もないと思うので、こちらに記載しておくことにした。

少しだけ解説を入れると、このイベントでは「ローカル・アーティスト」なる聞きなれない造語を使っている。伝承が難しくなっている郷土芸能や催事を、アートとして捉えようということだ。流行りのワードを組み合わせることで、かつアーティストという敬称を付与することで、門戸拡大と障壁の引き下げ、かつプライドの付与を一度にしようという意図は理解できぬではない。だが、移住促進という空気にも通底しているようなこういう行政主体の展開が孕んでいるのは、それによる「大事なものの消失」だと僕は考えている。そういう目線で以下の文章を読んでもらえるといいかもしれない。

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Q1 映像クリエイターとして、各地の郷土芸能の持つ魅力とは何だと思いますか?

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(長岡回答)

一言で言えば、ダイナミズムじゃないんでしょうか。ケの社会のコモンセンスを越えた意味不明さがあるにもかかわらず、どこまでも人を魅了してしまう。それをすることが生の目的にすらなってしまう人もいるような強さがある。今の僕らの想像力では思いつきもしないような設定やキャラクター、色彩や小道具・大道具が当然のものとして時代をこえてドーンとある。そういうものを通じて「ああ、俺って日本人なんだな」と思えるのだと思う。

なんでそんなにダイナミックなんだろうというと、たぶんベクトルが人ではなくて、目に見えない神(と呼ぶしかないもの)に向かっているからだと思います。神事なんです。そもそもが郷土芸能の出自は神事です。神楽も、三番叟も、踊りも、神輿も、「たまぶり」のために行っている。つまり神様をたのしませるためです。人のためというのはあくまでもサブ的なもで、メインは神様に向けたエンターテインメントなんです。僕自身、撮影する時は常に神の気配を意識している。ここ入っていいですか?と対話している感覚がある。カメラマンなんて夾雑物で、本来はいらないもんだと思ってやってます。

パフォーマンス的になりすぎたり、存続だけ考えた形だけのものに違和感があるのは、そういう理由からです。僕が言うのも変ですが、神事中は撮影は禁止すべきだとすら思います。最低限、映画鑑賞やライブ鑑賞と同じようにするべきです。公式に頼まれたカメラマンとしても、どこまで寄っていいのか、ダメなのかそれがわからない。ただ空気を読むしかない。保存会や運営母体はそういうガイドラインを作るべきだと思います。一般の撮影を禁止することで、神のためという目的はある程度保たれる。演じ手の意識も変わり、見る側も変わってくるように思います。年配の素人カメラマンの趣味のために運営しているわけではないんですから。

祭や芸能は、そのコミュニティーの神=産土神のために、氏子のメンバーが団結して担ってきた。人間が勝手に支配して何をしてもいいというのではなく、ここで住ませてもらっているのだという感覚がなければそれはとても存続できないでしょう。でもそれをやってはじめて日本人は、本来の意味での「フツー」になれるのだと思います。昔は仕事をカセギとツトメという言葉で分けていたといいますが、そのツトメのパートを担う凄さをこそ伝えなければならない。「楽しい」とか「笑顔」ではないところをです。それは僕らみたいな立場の者の仕事かもしれません。

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Q2 これから「地域の伝統文化に取り組みたい、何か創ってみたい」という若い人達(ローカルアーティスト)を増やすために、行政や地域の方々、アーティストやクリエイターも含めて、どのようなことに取り組めばいいと思いますか?

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(長岡回答)

そこの血族である人が受け継ぐのが一番です。それが原則です。でも負担が大きすぎて様々なサワリがある。なので、部分最適化はしていく必要があると思います。血族がいなくてはじめて外部を入れるか考える。移住者は「やらせてください」と頼む側です。地元側がお願いしてやってもらうのではない。そのやらせてあげる側がちゃんと評価されなくてはならない。この辺りは移住者のみにスポットが当たる昨今のローカル事情と通じています。安易に持ち上げてはダメです。

祭や芸能の前に、そもそも氏子に入るのか、共同清掃に参加するのか、共益費を払うのかという問題があります。なにもしないのに行事だけ参加したいというのは虫が良すぎる。共益費が、コミュニティーの運営資源と思うことがコンセンサスにならないといけない。僕らは住まわせてもらっているのだから。

沖縄の久高島では土地に入る入らないは、字のコミュニティーが決める。字に認められたら「ちゃんと綺麗な緑を作ります」的なことを言って初めて土地に入る。彼らは今でも神話的な世界に生きている。たぶん本来はどこの場所もそうだっんです。

神社合祀によって小さい神社がどんどんM&Aされてしまい、自治体の大合併で固有の「名」が消えて、環境と人との結びつきが消えてしまった。「神様なんていないんじゃん。だから誰がどこ住んだって何したっていいじゃん」という意見が一般化してしまう。その最低限度の宗教観が崩れた結果が「現在」でしょう。

「人のため」にパフォーマンスとしてやる場合は別のアプローチも必要であると思う。新しい主題や手法を入れたらいいんじゃないか。よりハードルの低いものも用意してもいいし、平易な解説やワークショップみたいなこともやってもいい。けど有象無象の表現者に無茶苦茶にさせていいとは思いません。ある一定のルールで選別する必要がある。肝心なことは、行政や表現者や媒介者が偉いのではない。伝統とその地域があることが尊いのだし、貴重なんですから。

鑑賞を有料にするようなものもあってもいいと思う。つまりプロになるわけです。助成金に頼って形骸化したものを唯々存続するというだけでは、マニア以外の若者は絶対やらない。プロのパフォーマンスを「人のため」に作る。見る側、やる側のために。

「神のため」のリマインドと「人のため」のリメイク。この二軸ができたら、色々と解決するんじゃないでしょうか。


以上。

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