note : umie


年にひとつかふたつ、予算や期限を度外視してやってみたくなる仕事の話が来る。なぜそうなるかをふと考えると、依頼者や被写体の熱量に起因しているようだ。その熱にこちらも知らず動かされて、次第に他人事だったものが、自分事として抜き差しならない、やんごとないものとしてどどーんとのし掛かり、ずっと脳裏から離れなくなる。いや、よく考えると、年に数回しかそのようなことをする体力がないということかもしれぬ。

今回デザイナーの柳沢さんから彼の経営するumieと云う、高松にあるカフェの15周年を記念する映像を頼まれた。

いつものように軽く引き受けてしまったのだが、これが間違いだった。
なぜ間違いかというと、飲食店を経営していた両親を持つ者として、15年間一つの店を営むということの重みが、だいたい想像できるからである。客や店員たち、あらゆる天候や気象や太陽光線の中での様々な会話やドラマや喜悲劇に、思いを馳せられるからである。抱かれていた赤子はいつしか大きくなり、彼女や彼氏を連れてくるようになる。初デートをしていた二人は、いつしか親として店に現れる。

ある人は死に、ある人はどこかへ消え、ある人の噂を想定外に聞き及び、ある人とある人が知り合いだったことに驚いたりする。店という場は、様々な人々を呑み込んでそこに膨大な物語を作り続ける。

僕は、去年17年の歴史を閉じた千葉にあった両親の店の記録をなんら撮らなかった。撮らなかったというより、撮れなかったという方が正しい。店がなくなるということが、常連客や元店員たちにとって途方もなく悲しいものであり、そして当事者たちにとっても身の一部がもがれるようなことであったからだ。だからある意味僕は懺悔するように、これを作ったのかもしれない。

62歳である柳沢さんは、「棺桶に持っていく映像を」と笑いながら僕にリクエストした。ただでさえ時間の重みがある中で、さらに重味が増していく。そうか、これは彼の遺言のようなものか。そう考え作ったが、後日聞いてみると当人は「変なこと言わんでよ」とあっさりそれを否定する。ある時は終わりについて、ある時は未来について語る。

自分の死のことがまるでわからないように、場所がいつ終わるのかなど、わかるはずがない。店をどこまでつづけるのか。どんなふうに終わりを迎えるのか。それは客にとっては好奇の対象であるが、自分自身と店と場とがほとんど同化してしまっている当事者にとっては、自身の体調の好不調で機嫌がよくも悪くもなるように、場所自体もが生き物のように感じられ、そこにキャラクターが芽生え、
それに対する感情や態度を持ち合わせるようになる。場所は自分であり、自分は場所になる。

当事者たちだけでなく、客たちにもそれと同じようなことが起きる。だから店に終わりを作ることは絶望的なことに思えてくる。場所とその記憶は、誰のものでもなく、皆のものであり、終わることはありえない。

間違いだった、というのは上のような理由による。
そんなことが詰まった映像をおいそれと即座に作ることはできない。
限界まで、明確に提示されなかった締切の近辺まで寝かせることにした。

じっくり一日一滴水滴を瓶に採取するように、編集作業を進めようと思ったのだ。(思い返せばそんなことばかり僕はやっている)

だから夢のように、アッとういう間の出来事として通り過ぎた15年という時間を束の間偲び祝うにしても、夢のような時間はまた先へ先へとひたすら展開していく。ある時代の終わりを示すとともに、次にやってくる時代の萌芽でなくてはなるまい。その構成に苦心した。

新しい物語、新しい登場人物を次から次へと湧き出させる増幅し続ける一冊の本のように、場所と時間は続いていく。過去の出来事や人々たちの幻影も、そこに幽霊のようにとどまり続ける。たとえビル自体がすべてなくなったとしても、それはとどまるのだろう。

柳沢さんは自分について多くを語ることを好まない。

umieの記憶やその始まりについて、近い関係者をのぞいてはほとんど誰も知らなかったかもしれない。カウンターの向こうの世界、それが僕の興味の矛先だ。開店前や閉店後に何が起きているか。なぜこの店は生まれ、いかに続いてきたか。語りづらいことを語ってもらうことにした。時代はまた次のなにものかへと向かって進もうとしている。それが何かはよく分からないが。

関連ブログ記事:http://www.milenagaoka.net/nisshi/umie

創作/技術メモ

話を受けてまず思いついたのは、カウリスマキが故マッティ・ぺロンパーを起用して撮った何かのCMである。FIXの絵、動きのないどーんと撮ったいつものワンシーンのような絵。カフェかどこかだ。ペロンパーが入ってきて、カフェの一席に座っていた男と握手をし、グラスの酒を飲み干す…。それだけで終わっていたようなものだったと記憶している。撮影時には動きの極端に少ない絵を撮りたかったが、編集時には動きを出したくなっていた。こういうのは生理現象のような気分に近いため困るが、静と動が渾然一体となりつつやや静よりの絵となったはずである。


機材:Sony FS7 /Slog3

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