御船祭@新宮(後編)

二日目の午前は熊野速玉神社境内にて各グループの必勝祈願を撮る。場所取りがいろいろ難しく、やたらイラチな中年のカメラマンに何度もダメだしをされたり軽く叩かれたり、おまえら誰だ的なことを言われるがこちらも仕事である。逆に他の会社の人とは仲良くなって撮影時に共同戦線を張る的に友好的に撮影するなどのこともあった。とにかくやたらせわしい。レースのスタートまで時間があるので、昼を食べてコメダ珈琲で休んだりする。

14:00~神輿が担がれる。前日と同じ白馬に今度は人形のようなものをのせ、それに神様を吹きこんだようだ。巫女やら氏子やらが後を続き、河原まで歩く。が、神輿がこないためある場所からじっと動かなくなる。僕は救護船に乗れなかったら大事なのでそれまでウロチョロした後はスタンバる。トシロウはオーディエンスをかき分けてタイムラプスを設置しに向かった。 

16:30から祭はスタート。男達が河原を全速で走って舟に乗り込み、一気に漕ぎ出した。僕はオン・ザ・シップである。何も水から身と機材を守るためのモノはない。救護船といいつつ、家族なのかそれぞれの地区の代表者なのか、そういう人が10人ほど乗る船の最前に他のカメラマンと身を屈めて9つの舟列を追った。無論三脚の使用は却下されているので手持ちである。

僕は事細かな「記録」であることはハナから考えてはいなかった。脳裏にあったのは、『産土』の山伏編の撮影時、ベン・ラッフェルが用いた手法だった。とにかく美しく撮る。それだけ考えていた。ニュース的な映像で見たのは上から撮ったどうでも良い映像だ。それを見て視聴者が何かを感じることはあるだろうか。「ない」と断定することから方向は生まれる。だいたい4K60Pのスローモーションで撮った。フルHDにすれば120Pまで撮れるのだが、それだと長すぎるし、ドキュメンタリーには向かない。第一現場で設定を弄っている暇もない。60PにはFS7SQボタンというのを一回押せばなるため、重宝している。無我夢中で撮った。

僕の乗る船は途中で岸に着き、そこからは河原から出来るだけ身を乗り出して、眼前の御蔵島を周回する舟を撮った。そして、レースが終わる。僕の追っていた丹鶴地区は優勝ならず。しょげかえっていたので声もかけれなかった。 

河原で島田がいるのを発見。どうやら成功したようだ。河原で他の車でぎゅうぎゅうで駐車を諦めかけたが、僕の車が四駆なので砂利道にただ一車のみ停められて、なんとかたどり着いたあ。レースが終わって勝敗が付いた後もなにやら一際大きな船が回っている。ここでハリハリ踊りというものが踊られていると調べていたが、gh4に200mmを着けて4Kで撮るので、実質300mmのカメラでも何も映らない。禁足地だという御船島に神主と二人の巫女が立ち尽くしているのが豆粒のように見える。やたら冷え込んできた河原で、半裸の男たちの歓喜と落胆とが交錯する。 

対岸の廃墟的施設に機材を回収しに戻ると既に暗くなっていた。そこでとある方にカメラの見張りをしてもらっていた。5D3はまだ回っていた。確認するとマジックアワーの夕闇に消えゆく感じが、かなりいい感じで撮れていた。回収して撤収。ここでもトシロウの身体能力の凄さにちょっと唖然とする。ホテルに戻る。川の水がだいぶ機材に付いたようだ。川と言っても、ほとんどすぐ海の汽水域の水だ。途中でアルコール液を買い、全機材をトシロウを掃除とデータ移動をし、今晩こそは地元の酒場に入りたくなりロビーで聞いて行ってみることに。ホテルから歩いて10分程の居酒屋に入る。ここで星山さんという方と、3人のマダムたちと横に座ったのが縁で語らった。新宮を撮りに来るならば、2月の火祭りにこなければダメだと言われた。客席にはイルカ漁をするという若い漁師もいたり、メニューにイルカの刺身があったりと土地柄を感じるには十分だった。星山さんとは痛風同士ということで親密になった…。

和歌山弁のレッスンを受ける。「行こうよ」が「いこら」。ばりウマイのばりが、ばりではなくて「わり」。そしていろんな店で「おおきに〜」が響く。

こういうところかなあ。

那智黒ソフト。

佐藤春夫記念館にあった昔の地図

中辺路で立ち寄った喫茶店の横の廃墟…。

直線距離で帰らないのな。

三日目、とある方は早朝に帰ってしまったので、このまま帰徳するのもやや癪なので、少しだけ新宮を見て回ることにした。撮影でほぼ何も見ていない熊野速玉神社に。

境内の中に、この辺りが生家だったという佐藤春夫記念館があったので意味もなく入る。どちらかというと嫌いな世界観だ。勝手にしろという気になるようなスノッブさを感じる。だが、一枚の写真を発見。それは、佐藤春夫が谷崎潤一郎から譲り受けた千代と赤ん坊の長男方哉、そして千代の連れ子である鮎子と4人で写っている写真だった。この鮎子の顔がビジネスホテルの朝食を配膳してくれた妙にエロいメガネっ子の店員と生き写しであることに気づいた。どうでもいいことだが、こんなところに転生しているのかと無想すると疲れがややとれた。春夫の奇妙な朗読が響くその館内を歩いて、他にも自作詩を書いたものにも目が止まった。書はかなりいい。

「都大路は我に衣なく、馬に草なし 帰りざらめや 山に老いまし」とある。

最後の「老いまし」のところが、「老い万志」となっていて、最後の「志」が変体仮名でぐにゃぐにゃになっているのがやたらカッコイイなあと思って模写してしまったほど。「カエリザラメヤ、ヤマニオイマシ」という響きも良い。良いというかやたら脳裏でループしてしまった。せっかくなので佐藤春夫も或いは鮎子もここで用をたしたに違いない瀟洒な洋風トイレで一座建立して出る。

境内で木造の小屋でミカンを売っているのおばちゃんと話してみた。三重県の中に飛地となっている北山村という村があり、「じゃばら」という種類のミカンを唯一栽培しているということを聞いた。また、この辺り一帯は昔は「川原屋」と呼ばれていた木造の家が軒を連ねていたのだという。釘を使わず、すぐに解体がすぐできるように考案されていた。まさに0円ハウスのような世界観があったのだ。理由は、洪水や台風による熊野川の氾濫である。そしてこの辺り一帯は、奥から川を下って山の男たちが木を運んでくる場所だった。つまり、遊郭があった。それとなしにそのような空気を探して町を歩いてみた。気配みたいなものはあったかもだ。


帰りはまた和歌山港に戻り、そこから徳島へ。 

この映像は、2月には公開できることになりそうス。


続く。 

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