御船祭@新宮(前編)


トシロウと。

南海フェリーのキャラクター、高野きらら&阿波野まい…。

インターで食べた和歌山らーめんとメハリ寿司

書こう書こうと思っていたら、知らずひとつき以上が経ってしまった。

とある筋からの依頼で、関西に点在している伝統文化を3つほど記録することになり、ちょっと前に徳島の那賀町で人形浄瑠璃による三番叟の撮影を終えた後、2つ目のロケとして、10月15日の早朝、和歌山は新宮に向かった。

ここで「とある筋」と書く必要は或いはなかったかもしれないが、とりあえずそうしておくことにする。

今回は割と昔からの、数少ない僕の友人であるトシロウを伊豆から呼び寄せて手伝いをお願いした。これが存外に役立ったことは後で書く。

ダウンタウンの松っちゃんをボコボコにする夢から起床して神山をで、とある筋の方と港で合流。そこから車ごと南海フェリー「つるぎ号」に入って8時出航。車込みで9600円、意外と安い。2時間ほどで和歌山港に着き、高速で田辺まで南下して降り、熊野古道の立て札が散見する山道を熊野川を横目に蛇行し乍ら新宮へと向かった。トシロウのgoogleマップのナビがなぜか英語で案内してくれる。途上、中辺路(なかへじ)・瀞(どろ)など中上健次の本で読んだことがある名前が出てくる。

中上誕生の地である新宮。そこで「御船祭(みふねまつり)」と呼ばれる褌一丁の男たちが乗り込んだ9叟の競漕を撮影するのである。言ってしまえば、「ただのボートレース」なのだが、これが1000年以上やっているとなるとなにやらそわそわしてくる。そのダイナミズムを如何に表現できるのか。それだけがお題であるように思えていた。

徳島の藍商人から寄贈されたという狛犬

対岸に見えるのが撮影スポットたる廃墟っぽい施設

新宮に入ったのは2時くらいだったろうか。初日はロケハンのみと悠然とタカをくくっていたものの、舞台となる熊野速玉神社に着くやいなや既に祭の最中であるという。神社の駐車場でなにやら機材やらを持って戦闘モードの人々を見ていてイヤな予感はしたのだが、やはりそうだった。

なんだやるのか!と慌てて走るなどして撮影したためか踵を痛めた。地元のケーブルテレビや、他で文化庁かなにかから依頼されていたという制作会社の大勢のカメラマン相手に、僕とトシロウとスタッフのようになってしまったその「とある筋」の方のみで、土地勘も何もない中で知らず闘いを挑んでしまうことになる。(機材もってもらってすんません…)しかしこういう時は記憶がなくなるほど没頭するのである。足の痛みも無論気づいてはいない。少し痩せたのか動きが軽快になった気がする。がその分動き回って逆に疲れたようにも思う。

慌てふためいて機材を用意し境内に参入。白馬の上に神の息吹を神主が移し、河原まで白装束の氏子たちとともに移動。河原沿いの堤防を、3軸ジンバルで追うカメラマンとその横を走る録音女子の邪魔にならないようにこちらも可能な限り高速で移動。どの場面からもどこかのカメラマンが入る。このタイミングを見計らって世界遺産の神社を見に来た大勢のオーディエンスもそれに加勢して、あちこちでスマホや一眼を向けている。

ともかくも河原へ。そこの「臨時祝祭場」とでも言うような場所で祝詞や珍味を神様に奉納。それと巫女の舞。それで終わりであった。今回なんとしても漕ぎ手にクローズアップしたかったが、誰に話をきけるかわからない、現場で探すしかないという(わりといつもの)状況だった。が、この日コーディネートをお願いした方から運良く祭の世話人的人物(総代だったのかどうかという詳細な肩書きは聞き損ねた)の山塚さんを紹介してもらい、彼の息子さんを取材しても良いとの許可をもらった。

取材に赴くのは19時頃、それまであるスポットに移動した。そこは熊野速玉神社の対岸にあり、御船祭の舞台となる御船島を至近距離で一望できるため、明日の本番では無数のカメラマンが群れることになるだろうことは容易に想像がついた。事前にいくつかリサーチしていた中で、色々と出てくる映像、写真はすべてそこから撮られていたのでチェックしておいたのだ。

ここで正確に書いてみると、そこは県道740号線沿いにある、元は灯台だったのか、なにかの水運関連の施設だったのかはわからないが、ほとんど廃墟のような場所である。行政区分的には三重県南牟婁郡紀宝町に位置している。意外だったが、現在は熊野川の北側が三重県、南側が和歌山県となっている。(昔は同じ藩の中であったことはいうまでもない)後に役場の人が現れたので分かったが、現在は役場の倉庫のような形で使っているらしい。見た目は火サスの犯人を追い詰める舞台といった感があり、その絶景の上の廃墟的倉庫x2の上に、いつからスタンバっていたのか、5~6個の三脚が紐で括られていた。 

そこでトシロウが脅威の身体能力をいきなり発揮し、2m以上はある壁を瞬く間に乗り越えて倉庫の上に登った。僕ととある方は登れなかった。手前の方は物々しそうだったので、より難易度が高そうなもう一つ側をトシロウは選んだ。これなら上から撮ることができる。明日は別行動にし、トシロウはここから 5D 3に20mmのTSレンズを付け、タイムラプスを撮ることにした。

連写を仕掛けて車で橋を越えて神社近くの河原に戻り、そこでgh4でレースを終えて岸に着く舟を撮影。僕は救護船に乗って船上から無防備なFS7でレースを撮影…という段取りに決まった。

夜になり、繁華街の中にある丹鶴(たんかく)地区の集会所のような場所で、いかつい男達にびびりつつ、前述の息子さんだという山塚亮太さんに話を聞く。皆ぴりぴりしているため、殴られでもしないかというような、とてもカタギとは思えない空間でインタビューする。33歳と聞いていたが、あまりに貫禄がある。前述の中上の生家は、たしか丹鶴地区のそばにあったはずであったので、なにか奇妙な高揚を覚えた。外で艪を軽量化のためか削る男達と、近所のスナックから聞こえるカラオケの重低音のコントラスト。

その後、夜の川での彼らの練習風景を撮影して、どこにでもあるチェーンの食堂で胃を満たした後、疲れ切ってホテルに。持っている機材ぎゅうぎゅうのデータを200GB分近く移行してから寝る。 

続く。


UMIEという場所

撮影した映像の一コマ。

依頼して頂いたのは15周年を迎える高松の或るカフェのアニバーサリー映像。前回夏の空気の残る快晴の夕景と朝陽の中の景色を撮ったのに次いで今回はそれぞれ店、そして店主と深い関係を結んでしまった15人ほどの人々を雨天の中で昼夜二回、客席に迎えて日帰りで撮影。

或る街にカフェなるものが出き、そこが居場所になったり、家のようになったり、恋を語らう場となったり、憧れて働く場になったり、作品をおそるおそる披露する場になったりする。つまり、それぞれの人生の結節点となっていくということをインタビューを通じて確認できた。痛いほどなにかを理解した。人々の目に光るものの前駆体のようなものが見え隠れするを見た。15年という時間の長さに感慨や寂寥があり、嘆息があった。撮影し乍ら、自分とは直接関係がないことなのになぜか自分の感慨であるかのような錯覚に囚われた。なんでだろう。

おそらく僕の実家もカフェだったからだ。17年目にしてつい先日店じまいした喫茶店のことを偲んだ。

なにかを始めなくてはなにも生まれないが、悪戯になにかを無責任に始めてしまい、かつ勝手に頓挫させていくような時代の流れに無言の抵抗をするかのように、店の「はじまり」から既に「昔からあったよう」なカフェの店主は、自らの才を否定しつつ、ただ一つ挙げるならば「続ける才能」だと呟く。 

居心地というものは、人から見えない気の遠くなるような労力と、膨大な量の物語によって醸されるのかもしれない。

そういう言葉に簡単にできないものを、映像化できたらと思っている。 

ちなみに前回の撮影はこんな感じ。公開は来年2末くらいになるかと思います。

http://www.umie.info



愛媛県大洲市 HONKI PROJECT について

昨年の仕事ですが、ようやく大洲市のWEBに掲載されたこともあり、Facebookの投稿をちょっとだけ文章を変えてこちらにのっけときます。

撮影期間9ヶ月に及んだ「音頭ムービー」。のべにして約1100人の大洲市民のみなさんを撮影したとのこと。
人口約47,000人の市ですから、だいたい50人に1人は撮ったことになります。いやー怒涛のような日々でした。

市長さんから幼稚園児から役場職員から婦人会から障害者の方々、漁師さんから椎茸農家、消防署員、火縄銃隊、中学生や高校生、はては日清カップヌードルのSAMURAI/徳田君までほんとうに多くの方を撮りまくりました。場所としても、市役所から大洲城、消防署、臥龍山荘、石出寺、龍馬脱藩の道、ダムに沈む集落、山の先にある棚田、滝、肱川あらしや柳沢からの雲海…等とともに四季の季節をカメラに収められました。

そもそもこの映像企画はどういう目的で産まれたかをざっと書きます。 


2015年1月で大洲市が合併して10周年を迎えたのですが、その合併で併呑された(以下全て旧)肱川町、長浜町、河辺村と、大洲市でそれぞれ別の音頭があるのでした。都はるみや三橋美智也等の大物が歌っていたりと実はそれぞれ本気なのですが、その踊り自体もそうであるし、そもそもの風物や人々が、「大洲」というまとまりになったとたん、やはりどうしても中央の旧大洲市のエリアだけにスポットがあたってしまう。そして、やがては忘れさられていってしまうかもしれない。

「参さんには頼まないんだけどこんなのやりたい」という話で、はじめは僕がやるはずではなかったので、他人事として「絶対やるべきだ」とおもっていました。それが2014年の3月になって急遽自分がやることになり、『産土』というよーな映画をやっているような自分としては、「おもしろそうだな」と思ってしまい、いつのまにか産土そっちのけで、こういう通年の企画となりました。 


そしてその全体を括るような言葉として、肱川のH、大洲のO、長浜のN、河辺のKに愛Iをという、「HONKIプロジェクト」という名前を命名させてもらいました。

やってみて、まず実感としてあるのが、大洲というのはほんとうに大きなマチだなあと。山の奥から海の先まで、大洲市民であっても普段行かないような方々へ、大洲市役場の樽井さんに連れ回されて参ったのですが、本当にやってよかったなあと思います。 


上記すべては、自分一人でやったわけではけっしてなく、Sa-Rahの帽子さん、役場の樽井さんをはじめNEW TOKYOの美容師中岡さん、ロケット団・祖母井さん、酒乃さわだの澤田さん、ハリカの松井さん、しぐれの老舗・ひらのやの平井さん、大洲城の田苗さんら、様々な方々の無私のご協力で成立しました。

映像を職能とするものとして、「誰のための仕事をするか」ということを考えさせられ、かつその幸せに少しだけでも浸れた日々でした。 

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