旅メモ:
旅といってもこれは大げさな旅ではない。今住むところ(神山)から、これから住むところ(佐那河内村)周辺へのちっちゃい旅。川に家族で入るだけの映像である。
前回の6分に比して今回は5分。いずれもっと最適な尺や内容が導出されるハズ。場所の移動も少ないが、前半では長男と長女の間でのドラマ、後半は長男がヤゴ?を捕まえて離すという時間が捕まえられた。
見知らぬ人々には「でどうした?」と言うのが妥当な平凡な日常だが、当の本人たちには、たまらなく愛おしい。時間が経てば経つほどそうなるハズ。
今後こういう家族編も、nowhereの枠でやってこうかな。
やってこうかなというか、それがそもそもの目的であったのかもしれない。
映像のスナップショットって撮りやすく、活かしづらい。
写真のカットと比べて、動きというものが写っているが、
gif等にしても脳内で回っていたハズのその空気は、反映され得ぬ気がする。
映像はカットの連続によって、意図の有無を問わず、そこにドラマが発生してしまうからではないか。
昔miruプロジェクトという、一分間ノーカットの映像を作り続けるプロジェクトを
していたことがある。無論、上記に書いたことを解決できると信じていた。
だがそれができたかどうかは疑わしい。nowhereというこの個人プロジェクトで
どこまで遡及できるか。
技術メモ:
前回の反省からSlog2をやめて、Cine4に変更。そしてNDフィルターをやめて高速シャッターにしてみた。(PLのみ使用)結果画質はかなり改善されたと思う。デフォルトSS125を200や、300にしたことでの画質の劣化や疑問点はあまりなかった。むしろスローでの描画が繊細になる気がした。問題は、+1以上で撮ってしまった映像がかなりの白飛びを起こすこと。見た目であまり判断せず、-1をキープするような露出選択にするべきかもしれない。
レンズは標準の16-50よりもっとワイドにしたかったので10-18に。長旅では咄嗟によりたくもなるが、こんくらいではOKだ。いつもは12-16あたりで撮る。35mm換算で、18-24mあたりである。F4通しなのがありがたい。日々、増々望遠がイヤになってきているような気がする。職人の撮影等、望遠が生きる時はある。けどもこのワイドの一本でどこまで出来るか突き詰めてみるのもよさ気である。
音がかなりよく取れる。120Pから23.978Pに変更してスローになっても質感を留めている。この辺り、今後はZoomで別撮りするなどしてみたい。
2日目の素材は、設定忘れそうになるISOをオートで撮ってみた。自分は若干青っぽく撮っておきたいタイプなので、デフォルトのISOの赤に傾きすぎる色に若干辟易した。なのでカラコレはPrismoからVision4にして、ややベースを青くした。PrismoはNDフィルターで若干変色した色には有効だと思ったが、普通だとイマイチか。あとPrismoを使うならば、Cine4だと露出が+に傾くと、酷い結果になる。
色や画質を追求するならば、4K60p proresとかRAWとかで撮ったらそりゃいいでしょうよ。Blackmagicとかのそういうのもそりゃいいよね。FS7でも、外部キットを入れればそれが可能だ(それだけ揃えるのに60万しそうだけど)。けど重さと携帯性、あと家族のスナップ、旅行のスナップという意味では、そこまでするコストは厳しい。そしてそこまでの画質を求める意味があまりない。4Kでの撮影〜編集がもっと身近になったら可能性はあるが。
FullHDだと最終書き出しではNDフィルター使用と不使用の差がそこまでなかった。そんなに気にしなくてもいいのかもしれない。書き出すまで、Gorilla Grainを薄く入れていたけど、当方winのためproresが使えず、Avidのdnxだとなぜかガンマがゴリッと変わってしまって使えない。ゆえにh264→Vimeo/Youtubeと二段階の圧縮すると、グレインが汚くなる。ゆえにやっぱしグレインは外して書き出した。暗部ノイズやバンディングが、逆にグレインのように見えなくもない。
旅メモ:
突然、一泊二日でお伊勢参りを強行した。なぜ斯様な暴挙に出たかは分からないが、
「産土」というものを題材とする自分には、日本国総産土であるはずの彼の地に
まずもって参るのがスジだろう、っていう気持ちがずっと脳裏のイズコにはあったものの、
日常の意識フレームの中ではほぼ有名無実であった。それがなぜかここ数日で、昂ぶって来た。
イズコにあったとは書いたものの、イメージしているのはヤジキタ的な光景で、
リアルな現在の場所として、どこかにそれがちゃんと「或る」ということが中々分からなかった。
「或る」のは知っているのだが、どこかでフィクションのように感じていた。
たらたら詳細を書いても致し方あるまい。
特筆点のみ簡素に記す。一日目、外宮に行く。外宮と書いて「げくう」と読むらしい。
日暮れ時のためかほとんど参拝者もなかった。大量の烏が外宮の森からどこかに飛び去っていった。参拝後夕食をとる店を探すが、19:00前後だというのにどこももう閉めると言う。まるで肉を食べさせないようにするかのようだった。3軒目が駄目だった時もう諦めて、ホテルでうどんセットを食べた。
動けはしたが、金縛りのような感覚がありほとんど眠れず。
なぜか最初に行ったアコネさん
外宮、途中「土宮」というのがあり、これぞ僕の参るところだなと思った。
二日目、恐怖に近い感覚があり手が震えていた。前日に嫁から買えと言われていた火打ち石を打った。 朝日とともに向かおうと思っていたが、ホテルを出たのはもう9時を回っていた。 五十鈴川駅からは歩くと決めていたので、実際に駅を降り、月讀宮、猿田彦神社、そして内宮(こちらも「ないくう」)と、 歩いて回る。意外に距離がある。西行が渡れず涙した五十鈴川を越えて内宮に入り白い玉砂利を踏む。
五十鈴川
だいぶ歩くと、既存の視覚や認知パターンにないところから不意に現れたかのような感じで、正宮の座す石垣の積まれた岡があった。石段を数えるとまず17段あり、そこを上がって更に7段があった。多くの観光客に混じって列をなして番を待つ。そして自分の番となり漸進すると、前の白いトバリがぷわーっと開き、中の門が伺えた。 その時「頑張れよ」程度のことが言われたような気がして妙に気が晴れた。
今回自分の中で、自分はやはり動画のカメラマンであるということ、気を使いすぎるのはやめたほうがいいということ、 そしてとにかく頑張るというどうでもいいアリテイのことが、有り体とは違う感じで合点した。
それほどの、それだけの、旅であった。
技術メモ:
旅用の簡易な装備、しかもほぼ手持ちで写真と併用しながら影像を撮るので、
手ブレ等も考え120Pにして撮ることにした。バッテリーと熱を考えても、4Kで撮らなくても
いいなと思った。Slog3よりは、比較的バンディングが出づらいというSlog2にして、
レンズはほぼキットレンズ。ベースISO=800はやはりネックである。日中炎天下での撮影がメインとなる
はずだから、NDは外せない。色とか質の劣化があるのでいやだがTiffenのバリアブルNDを買って着けてみた。
結論として、相当減光する必要があるので、濃いNDの使用が解像感を著しく害しているし、カラーシフトもかなりある。特にホワイト部分が黄ばんだような色になる。これを付けたまま写真も撮ったが、写真だと画質が悪すぎて使い物にならないなと思った。エッジが酷い気がする。ところどころ周辺部分を中心にノイズやバンディングがやはり出ている。これは間違いなくNDフィルターのせいだろう。
せっかくイエローにシフトしてるんだから、M31などのもう飽きてきたオーソドックスなカラコレはやめて、黄ばんだ感じが出る、Vison Color社のPrismoというのを試してみた。
それにしてもマイ設定を保存しておくところの使い方がやりづらい。
そしてPP設定が写真⇔影像で違うのを間違えて、PP7で写真を撮ったり、PP3で動画を撮ってしまって
使いものにならないカットを量産してしまうことが多い。この辺りは電源をOFFると設定が反映されないで
デフォルトに戻るGH4の仕様が懐かしく思う。
撮影はSlog2は+2が推奨と言われているので、暗いところや咄嗟にカメラを用意して反応したカットなどを
除くとそれに準じて撮ったと記憶しているが、NDでの光量下げの反映が分かりづらいのと、
白い服に太陽光がガンガン当たるようなハイライトマックスの部分は+2でいいのか疑問。また+2以上の露出だったとしても、ビューファインダーでは点滅がするだけなので、間違えることもある。
日中の撮影はただでさえ光がつまらないのでイヤだが、しょうがなくやる場合は、
ベースISOが200のCine4で撮るほうがいいのかもしれない。手持ちによるブレが解像感を減退させていることも可能性としてはある。
三脚は最軽量のものでもやはり持ってくべきだった。
今回はシャッタースピードを125固定で撮ってみたが、Cine4にしてシャッタースピードを25倍率で上げていくという手もあるか。ハイライト防止と反射光減少、2段落とす用でPLだけ着けて今度はやってみようか。
Cine4は-1が推奨とのことだったがどうなのかな。誰かのテストでは、Cine4の方が概ねノイズが少なかったはずだ。
スロモのみだったら、240P~960fpsまで撮れるRX100M4のがいいかもとか思ってしまう。
買う時悩んだが、動画のBカメとしての機能、写真撮影も考えてこれにしたんだが。
内蔵NDが入っているのも魅力ではあるが、画質はA6300のが高いのかな。
つづく。
2/14に神戸KIITOにて、”人・まち・ブンカ”ラボ まちのブンカのカタチを創る ローカルアーティストってなんだ?というのが主題のイベントに、山崎亮さんら錚々たるメンバーと共に僕でいいのかと思いながら参加した。そこで流した映像は、このサイトのドキュメンタリーの頁にあるのでそちらから確認してもらうとして、そのディスカッションで語りきれなかったことを文章にまとめてとの主催者からの要請をうけ、以下を書いた次第。おそらく小さな冊子等になるのでしょうが、文章を見る機会もないと思うので、こちらに記載しておくことにした。
少しだけ解説を入れると、このイベントでは「ローカル・アーティスト」なる聞きなれない造語を使っている。伝承が難しくなっている郷土芸能や催事を、アートとして捉えようということだ。流行りのワードを組み合わせることで、かつアーティストという敬称を付与することで、門戸拡大と障壁の引き下げ、かつプライドの付与を一度にしようという意図は理解できぬではない。だが、移住促進という空気にも通底しているようなこういう行政主体の展開が孕んでいるのは、それによる「大事なものの消失」だと僕は考えている。そういう目線で以下の文章を読んでもらえるといいかもしれない。
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Q1 映像クリエイターとして、各地の郷土芸能の持つ魅力とは何だと思いますか?
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(長岡回答)
一言で言えば、ダイナミズムじゃないんでしょうか。ケの社会のコモンセンスを越えた意味不明さがあるにもかかわらず、どこまでも人を魅了してしまう。それをすることが生の目的にすらなってしまう人もいるような強さがある。今の僕らの想像力では思いつきもしないような設定やキャラクター、色彩や小道具・大道具が当然のものとして時代をこえてドーンとある。そういうものを通じて「ああ、俺って日本人なんだな」と思えるのだと思う。
なんでそんなにダイナミックなんだろうというと、たぶんベクトルが人ではなくて、目に見えない神(と呼ぶしかないもの)に向かっているからだと思います。神事なんです。そもそもが郷土芸能の出自は神事です。神楽も、三番叟も、踊りも、神輿も、「たまぶり」のために行っている。つまり神様をたのしませるためです。人のためというのはあくまでもサブ的なもで、メインは神様に向けたエンターテインメントなんです。僕自身、撮影する時は常に神の気配を意識している。ここ入っていいですか?と対話している感覚がある。カメラマンなんて夾雑物で、本来はいらないもんだと思ってやってます。
パフォーマンス的になりすぎたり、存続だけ考えた形だけのものに違和感があるのは、そういう理由からです。僕が言うのも変ですが、神事中は撮影は禁止すべきだとすら思います。最低限、映画鑑賞やライブ鑑賞と同じようにするべきです。公式に頼まれたカメラマンとしても、どこまで寄っていいのか、ダメなのかそれがわからない。ただ空気を読むしかない。保存会や運営母体はそういうガイドラインを作るべきだと思います。一般の撮影を禁止することで、神のためという目的はある程度保たれる。演じ手の意識も変わり、見る側も変わってくるように思います。年配の素人カメラマンの趣味のために運営しているわけではないんですから。
祭や芸能は、そのコミュニティーの神=産土神のために、氏子のメンバーが団結して担ってきた。人間が勝手に支配して何をしてもいいというのではなく、ここで住ませてもらっているのだという感覚がなければそれはとても存続できないでしょう。でもそれをやってはじめて日本人は、本来の意味での「フツー」になれるのだと思います。昔は仕事をカセギとツトメという言葉で分けていたといいますが、そのツトメのパートを担う凄さをこそ伝えなければならない。「楽しい」とか「笑顔」ではないところをです。それは僕らみたいな立場の者の仕事かもしれません。
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Q2 これから「地域の伝統文化に取り組みたい、何か創ってみたい」という若い人達(ローカルアーティスト)を増やすために、行政や地域の方々、アーティストやクリエイターも含めて、どのようなことに取り組めばいいと思いますか?
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(長岡回答)
そこの血族である人が受け継ぐのが一番です。それが原則です。でも負担が大きすぎて様々なサワリがある。なので、部分最適化はしていく必要があると思います。血族がいなくてはじめて外部を入れるか考える。移住者は「やらせてください」と頼む側です。地元側がお願いしてやってもらうのではない。そのやらせてあげる側がちゃんと評価されなくてはならない。この辺りは移住者のみにスポットが当たる昨今のローカル事情と通じています。安易に持ち上げてはダメです。
祭や芸能の前に、そもそも氏子に入るのか、共同清掃に参加するのか、共益費を払うのかという問題があります。なにもしないのに行事だけ参加したいというのは虫が良すぎる。共益費が、コミュニティーの運営資源と思うことがコンセンサスにならないといけない。僕らは住まわせてもらっているのだから。
沖縄の久高島では土地に入る入らないは、字のコミュニティーが決める。字に認められたら「ちゃんと綺麗な緑を作ります」的なことを言って初めて土地に入る。彼らは今でも神話的な世界に生きている。たぶん本来はどこの場所もそうだっんです。
神社合祀によって小さい神社がどんどんM&Aされてしまい、自治体の大合併で固有の「名」が消えて、環境と人との結びつきが消えてしまった。「神様なんていないんじゃん。だから誰がどこ住んだって何したっていいじゃん」という意見が一般化してしまう。その最低限度の宗教観が崩れた結果が「現在」でしょう。
「人のため」にパフォーマンスとしてやる場合は別のアプローチも必要であると思う。新しい主題や手法を入れたらいいんじゃないか。よりハードルの低いものも用意してもいいし、平易な解説やワークショップみたいなこともやってもいい。けど有象無象の表現者に無茶苦茶にさせていいとは思いません。ある一定のルールで選別する必要がある。肝心なことは、行政や表現者や媒介者が偉いのではない。伝統とその地域があることが尊いのだし、貴重なんですから。
鑑賞を有料にするようなものもあってもいいと思う。つまりプロになるわけです。助成金に頼って形骸化したものを唯々存続するというだけでは、マニア以外の若者は絶対やらない。プロのパフォーマンスを「人のため」に作る。見る側、やる側のために。
「神のため」のリマインドと「人のため」のリメイク。この二軸ができたら、色々と解決するんじゃないでしょうか。
以上。
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